少女邂逅
『少女邂逅』
モトーラ世理奈ちゃんに惹かれて、見始めた映画。
ストーリーも画の雰囲気も良くて二度見してしまった!以下は難解なこの映画の私なりの解釈をまとめてみました。映画の結末まで書いているのでネタバレ注意。
あらすじ-----------------------------
いじめられていた高校3年生のミユリ。リストカットをしようと思ったときに手首にいた蚕に紬(つむぎ)と名前をつけ飼い始める。しかし、いじめられっ子に取り上げられ、草むらに放られてしまう。
-いつまで、そんな狭い世界にいるの。私が出してあげる。
その翌日、富田紬(つむぎ)という女の子がクラスに転校してくる。紬とミユリは共に行動するようになる。
ーねえ、知ってる? 虫はね痛覚がないの。長くは生きれないから痛みを知っていてもしょうがないの。痛みが分かるってことは長く生きる価値があるってこと。
紬とミユリは、誰にも内緒でふたりで沖縄にいくことを約束する。ミユリは紬にどんどん惹かれていく。
--------------------------------
まゆから大人になるミユリ。そして、まゆの外側だけが使われてしまった紬。というように私には見えた。
ミユリの夢の中での、紬の言葉が印象的だった。
実は紬はクラスメイトの中身を空っぽにして、外側だけを売っているという。
ーみんな外側しか見てないし、外側にしか興味がない。そして外側を利用するだけ利用して、捨てられる。
1番映画がよくわからなくなったところ。
約束していた沖縄に行こうと電車を待っていた時、ミユリは紬の太ももの傷痕から糸が出ていることに気づく。ミユリはそれを夢中になって引き出してしまう。そして糸がぷつんと切れた瞬間に、二人の関係は一転する。
ミユリは紬を置いて家に帰り、紬は捜索願を出されていた警察に保護される。学校でも会わなくなる。ミユリは大学に合格し、東京に行く。
出発の電車のホームで、いじめられていたカオルから紬が死んだことをつげられる。部屋の隅でひっそりと餓死したと。
ミユリは人気のない電車の中で、今までは実行できずにいた、リストカットをし、血を流す。
あれ、なんでミユリは紬と距離を置いたの?
紬はなんで死んじゃったの?
最後になんでミユリはリストカットして終わるの?
紬から出ていた糸を全部引き出してしまったとき、蚕になぞらえた紬は、人間のミユリに対する価値がなくなったということを示しているのかな。それでミユリと紬の不思議な関係は終わり、紬はミユリに放っておかれる。
蚕は人間のために家畜化された虫。まゆから出て餓になっても、自分の身体が重すぎて飛ぶことができない。でも痛みを知らないから、足が取れても羽が取れても動いて、2日と持たずに死んでいく、らしい。
紬は蚕の擬人化。だけど驚くほど、今の人間と被る部分が多いことに気づかされる。外見だけで人を判断している人、自分の外見しか価値がないと思っている人、いっぱいいるんじゃないだろうか。自分だって例外じゃない。特に中高生の時の自分は、それにすごく苦しめられたし苦しめた気がする。
最後ミユリは、痛みを感じるようになった、ということ。これは長く生きていくと決意したということ、なのではないだろうか。紬とミユリの違いは痛みを感じれるかどうか。痛みは苦しいけど、それを知らないと生きてる価値もない。生きることが苦しいひとへの厳しくも優しいエールなのだと思う。
2020.5.14 追記
友人からこの記事の映画のタイトルが、間違っているという指摘をもらった。
…びっくり。ずっと『少女改造』だと思っていた。どうりで、タイトルの意味だけは分からないなあと思っていた。
正しくは『少女邂逅』(しょうじょかいこう)。邂逅とは、「思いがけなく出会うこと。巡り合い。(-三省堂『大辞林第三版』より」)
なるほど。この映画への理解がまたなんとなく深まった気がする。紬との邂逅によって、変わっていくミユリ。偶然のような必然のような出会いと少女の変化に焦点を置いているのかな。